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数秘術関連等ツイート(2015年10月分)
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見返りとしての「幸せ」
(2015.10.31 22:52)
苦労をした分、その見返りとしての幸せを求めることは至極当然。
問題は「これだけの苦労をしたのだから、その分の帳尻合わせとして自分は大いに幸せにならなければならない」などと自らに「幸せとなることを強制」してしまうこと。
この「幸せ」の中にはもはや「活きの良さ」は感じられない。
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科学頼り
(2015.10.31 22:42)
へんてこなスピリチュアルほど「科学用語」に頼る。
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不吉
(2015.10.31 13:56)
カラス 「カァ!カァ!」
ヒト
「キャア!カラスがけたたましく鳴いてるわ!なんて不吉なの!」
カラス
「不吉なのは俺たちじゃなくて、因果関係のないもの同士を不吉という概念で結び付けようとするお前らだアホー」
ヒト
「キャアァァァ!!!カラスが喋った!不吉よぉぉ!」
カラス 「」
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「カリスマ」の是非
(2015.10.31 13:29)
強固な官僚システム(8)によって支配され、極めて硬直化しているニッポンを本気で変えようとするならば、そんなシステムをグサリと貫いて大改革を行えるようなカリスマ(1)の降臨を期待するのも致し方無いと思う。
システム破壊後の大混乱や、より絶望的なシステムの構築に繋がる恐れもあるが。
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真の名将
(2015.10.31 13:03)
真の名将は選手の「1(自尊・自負・自立)」を過度な「8(制御・抑圧)」で殺さないんだね。
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消去法的継続
(2015.10.31 12:20)
占い師を続けていると当然いろんな職業人を占うことになるし、それはそれら職業人から吐き出される様々な愚痴を聞くということ。
そうやって散々いろんな職業のブラックさを聞いているうちに、ほのかに抱いていた占い師以外の選択肢が消えていってしまう。
結果消去法的に占い師を続けてしまう。
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「機転」と「機知」
(2015.10.31 11:41)
江戸時代の盲目の国学者である塙保己一。
講義中にロウソクの灯りが消え、弟子たちが慌てふためいている様を察した保己一は「目あきというのは不自由なものじゃ」と冗談を言ったというエピソードが残っている。
不利を利と捉える「機転」と全てを笑いに包み込む「機知」。
一つの人生訓だね。
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長活き
(2015.10.30 20:01)
「長活き(ながいき)」できる人だけが「長生き」を許される社会の到来まで、そんなに時間はかからないんだろうな。
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「信」と「疑」はペア
(2015.10.30 17:58)
誰かのことを「2(信じる)」すれば、自動的に「7(疑う)」もやってくる。
だから「こんなに信じているのにどうしてちらりと疑ってしまうの?これは私の心根が悪いのかしら…」などと徒らに自らを責める必要はないよ。
「2」と「7」はペアの数なんだから、至極当たり前のことなんだ。
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刺激でも退屈でもない
(2015.10.30 17:06)
奇数という「刺激」からも、偶数という「退屈」からも離れた「9」という「安らぎ」。
でもこの「9」は容易に逆数「0」という「無痛無感無為」へと化けてしまいやすい。
そんな「9」が本当の意味で「安らぎ」となるのは、相当に年月を経た後のこととなるだろう。
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宗教チャンポン
(2015.10.30 16:55)
初詣と盆とハロウィンとクリスマスが同居するニッポン。
宗教チャンポンとしての「9」だね。
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緩やかな「統合」
(2015.10.30 16:53)
今日のマンツーマン逆数秘術講座は無事終了。
遠く愛媛からいらっしゃった受講者の方との逆数話に花が咲いた。
切っても切れない「双子の数」である逆数同士を無理強いせず緩やかに「9」へと統合させるプロセス。
「なんくるないさぁアイデンティティ」が出来上がっていくんだね。
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ケルト九字 (2015.10.29
16:23)
占い師 「では今回はケルト九字で占ってみましょう」
客
「ケルト九字」
占い師
「臨ッ!兵ッ!闘ッ!者ッ!皆ッ!陣ッ!列ッ!在ッ!前ッ!(掛け声毎に一枚ずつカードを置く)…『臨』の位置に『死神』が出ましたが、最近何かとてつもなく大きな喪失を体験しませんでしたか?」
客 「ケルト」
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ニセモノの「孤高」
(2015.10.29 16:04)
「私はどうせ一匹狼さ…」などと開き直り、とある仲良しグループから離れた人が結局は自らのプライドを心地良くくすぐってくれる人たちと仲良しグループ化していくケース。
「2(関係)」が嫌で「7(孤高)」に逃げたのに、結局はただ別の「2(関係)」が欲しかっただけでした的な。
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膨らませる因果関係
(2015.10.29 14:07)
「因果関係は不明ですが…」などと断って報道していても、その報道を観ている人々は徒らに因果関係性を膨らませてしまうよね。
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ひっくり返せ
(2015.10.28 22:34)
「焼け石に水」だと役に立たないけれど「水に焼け石」ならば良い湯沸かしとして役立つ。
「ひっくり返す」って大事だね。
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「王」と「臣」
(2015.10.28 20:36)
王「余は王なるぞ。「1」なるぞ。余の行為を阻むものはこの世に無いのだぞ」
臣「畏れながら…王が王でいられるのは、他ならぬ我らが管理運営する「8」たるシステムによるものです。ゆめゆめ勘違いなさらぬよう」
王「はい」
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「楽」なスタイル
(2015.10.28 12:30)
「人」のためではなく「数」のために数秘術をこねくり回すのが、僕にとってはしっくりくるね。
大半の人は逆だろうけど、このスタイルの方が変なプレッシャーがかからなくていいや。
「数」のイメージを再建設していく感じでこれからもこじつけていくとしよう。
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ぎこちない奇数性 (2015.10.27
22:40)
奇数(動的・混沌)全開で生きてきた「7」の母は自らと同じ苦労を味わわせないように、「4」の僕を偶数(静的・秩序)全開の過干渉・過保護下で育ててきた。
だからこそ偶数性を嫌がり、奇数性に強く憧れる逆数「5」な僕が出来上がった。
でも元が「4」だから、「5」もどこかぎこちない。
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「快」について (2015.10.27 8:20)
自らの「快」が単純に増大していくことを「快」と捉えるのが「3」マインド。
自らの「快」を抑制し、他者の「快」を増大させることを「快」と捉えるのが「6」マインド。
「3」が強くなり過ぎると自らの「快」は薄れ倦むし、「6」が強くなり過ぎると自らの「快」が悲鳴を上げる。
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最大の敵
(2015.10.27 0:50)
「1(暴れ動く火)」も「3(暴れ動く水)」も、そして「7(暴れ動く風)」も、容易には「4(静まり止まる土)」を動かすことはできない。
しかしそんな頑丈な「4」であっても、自らの逆性である「5(暴れ動く土)」への変質によって脆くも崩れ去る。
自らを滅ぼす最大の敵は自らなんだ。
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アンチビースト
(2015.10.26 21:06)
ビーストとしての野性が「1」ならば、アンチビーストとしての理性(反野性)は「8」となる。
アンチビーストである「8」は理性を駆使して、網の目のようなシステムを張り巡らせ、ビーストである「1」を絡め取って飼い馴らしていく。
でも「1」は野性を駆使して乾坤一擲の抵抗を試みる。
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偶数の持つ「対称性」 (2015.10.26 19:21)
強い奇数性(動的・混沌・本能)を抑える偶数性(静的・秩序・理性)。
「2」は理性の言うことを聞く「従順」となり、「8」は理性の言うことを無理矢理聞かせる「強制」となる。
「4」は個人の範囲内における「節制」となり、「6」は教導・矯正の形で他者に及ぼす「節度」となる。
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権力とは「システム」
(2015.10.26 14:38)
まさに「権力」とは単体のものではなく、「8」の如く網の目のように繋がった「システム」そのものを指すんだね。
単体としての「権力」である「1」的な存在がいなくても、問題無く機能できるのが「8」という官僚的オートメーションシステム。
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進化するのみ
(2015.10.25 22:17)
人類は決して退化することはなく、あるのは「プラスの進化」と「マイナスの進化」だけだと思う。
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勝負 (2015.10.24 14:52)
「お前はろくに勝負もしないで一生を終えるつもりか!?」
「お前は勝負ばかりに明け暮れて一生を終えるつもりか!?」
両者の無限バトル。
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難破船
(2015.10.24 13:38)
強情な「9」マインドに見られるのが、ただ難破して当てもなくさまよっているだけなのに「違う!あえていろんな経験を積んでいるんだ!」などと嘯くケース。
人生において難破しがちな「9」マインドには、強力なスクリューと確信的に一点を指し示す羅針盤を備えた「1」マインドが助けとなる。
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無駄・有害・無益でも
(2015.10.24 11:28)
「このやり方のほうが無駄なく進められるよ!」
「これを食べたほうが身体に良いよ!」
「もっと人のためになることをしよう!」
これら「6」マインドも良いけれど、「無駄でも有害でも無益でも好きなことを好きにやりたいんだい!」という「3」マインドも同じように尊重してあげなきゃ。
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「期待」を捨てる
(2015.10.23 19:51)
自他のコントロールを目指す「8」マインドにとっては「自分にも周囲にも期待をしない」というのが最もシンプルな処世術だと思う。
「期待」とは強いコントロール願望そのものであり、その願望を捨てることで逆数「1」マインドのように他を意識しないシンプルかつビビッドな人生が訪れる。
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葛藤すらも
(2015.10.22 20:26)
動的・混沌・チカラ・スタンドアロンの奇数。
静的・秩序・カタチ・オンラインの偶数。
この二つの極性がもたらす葛藤を無理に乗り越えるのではなく、むしろその葛藤を「善し」とする。
そうやって両極性を緩やかに溶け合わせることができれば、偶奇両有の「9(無為自然)」の境地に近づく。
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強いられる「啓発」
(2015.10.22 12:54)
「自己啓発」って本来ならば「自発的な啓発」なんだろうけど、実際には「社会や組織に強いられる啓発」って感じの人が多そう。
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「多様性」はじっくりと (2015.10.22
8:26)
ヒトが本質的に持っている防御機能、つまり異質物を排除しようとする機能が「多様性社会」の実現を阻害している。
その防御機能は過剰な「均質化教育」によって一層強化されてしまうが、もし「多様性」を強制したならば、かえって「反多様性」への反動を招く。
「多様性」はじっくり実らせよう。
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違和感すらも「自分」 (2015.10.21 14:56)
自らに対する納得感や違和感、全部引っくるめての「自分」だよね。
納得できる「自分」だけを欲しがり、違和感を感じる「自分」を排除するのは、もう既に「自分」じゃなくなってるから。
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それはただの「幻」
(2015.10.21 11:04)
「本当の自分探し」をする際、自らが強く意識する要素とは対称的なもの(逆数や補数)から見つかることもあるし、今まで認めないようにしてきたオリジナルの要素から再発見することもある。
でもヒトは本質的に「9(全てを内包)」であることを踏まえると「本当の自分」自体が実は「幻」となる。
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「そのまま」を認める
(2015.10.21 10:35)
好きなものをより一層好きでいようとする「3」マインド。
嫌いなものを矯正したり徹底排除しようとする「6」マインド。
この二つのマインドを中和させることにより、好きにも嫌いにもこだわらず、そのままの存在でいることを大らかに認めてあげるのが「9」マインドという「アガペー」なんだ。
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「中和」させていく (2015.10.21 9:46)
「5(変化)」の無い「4(安定)」は「退屈」への入口。
「4(安全)」の無い「5(冒険)」は「危険」への入口。
「数」単体の存在感が強くなり過ぎることによる害を防ぐためにも、対称的な「逆数」をバランス良く混ぜ合わせていき、うまく「中和」させていきたい。
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価値観念の隊列 (2015.10.20 12:59)
「もっと上に行かねば!」
「下には落ちたくない…」
「うんと前に進まなきゃ!」
「人の後になるのは嫌だ…」
こういった「上下」や「前後」には、前者を優、後者を劣とする価値観が隠れている。
そんな価値観念の隊列からそっと離れてみれば、ヒトがいかに自縛的に生きているかがわかる。
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「嫉妬」は燃やし尽くせ (2015.10.19 13:14)
「嫉妬」は悪だ、と断じて無理矢理その炎を消そうとするよりも、むしろその炎を存分に燃え上がらせ、全てが灰となることでの自然鎮火を目指してもいいかも。
「嫉妬」の炎なんてものは覚者ではない限り、そう簡単に消えやしない。
ならば散々燃やし尽くした後にさらりと「枯れて」いく方が早い。
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「殻」の外から中へ
(2015.10.19 11:22)
自らの「殻」の外(相手や社会)のことをまじめに考え、とにかく役立とうと頑張り、調和や調整に勤しむのが「6」マインド。
そんな「6」をやり過ぎて疲弊したならば、補数の「4」マインド、つまり自らの「殻」の中(自身や家族)のケアに意識を向けよう。
健全な「4」が健全な「6」を生む。
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どちらが「幻」か? (2015.10.19
0:12)
「我」という存在を信じ切る「1」、つまり大半のヒトから見れば『「9」=「0」』という「空(くう)」はただの幻にしか見えない。
しかし『「9」=「0」』という「空(くう)」に気付いた「9」から見れば、むしろ「1」という「我」の方こそ幻に見える。
後者こそが「ブッダ」なのだろう。
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「テーブル」を降りる
(2015.10.18 23:44)
「輪廻」とはある意味、ポーカーや麻雀などのギャンブルを行う「テーブル」かもしれない。
現世の行いや功徳の積み方次第で、来世が苦となったり楽となったり。でもこれってすごくギャンブルチック。
そんな「テーブル」からそっと離れ、苦楽という対概念から解放されることが「解脱」なのかも。
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「占い」が生む執着 (2015.10.18 23:36)
「占い」という行為によってヒトは過去・現在・未来を知ろうとし、そうすることで苦しみから逃れようとする。
でもその「占い」という行為自体が過去・現在・未来に対する執着を生み、それは則ち「苦しみから逃れようとする苦しみ」を生み出してしまうことも。
もっと「占い」から自由になろう。
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チカラとカタチの混交 (2015.10.18 21:50)
奇数という無形の「チカラ」。
偶数という有形の「カタチ」。
その両者の存在をわざわざ捨て去るわけではなく、それらを使うことをぼんやりと忘れていき、ただただ日々を過ごしていく。
それが「チカラ」であり「カタチ」でもある、曖昧な、それでいてなんだか心地の良い「9」的境地なんだ。
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「命」の使い方
(2015.10.18 21:40)
僕は普段この喩えを用いないけれど、奇数(動的・混沌・チカラ)は男性性であり、偶数(静的・秩序・カタチ)は女性性であると捉えることもできる。
偶数性が「命そのものを大切に守る」のに対し、奇数性は「自らの命を存分に使い切る」ことを重視する。
使ってこその「チカラ」というわけだ。
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「祭り」は奇数無礼講
(2015.10.18 21:07)
「祭り」でたまに人が怪我したり死んだりすることを、社会の中で規則正しく生きる偶数(静的・秩序)マインドの人々は蔑視するかもしれない。
でも普段から偶数性の強い社会の中で息苦しく生きている人々からすれば、たまの「祭り」で存分に奇数性(動的・混沌)を暴れさせたくなるのも無理はない。
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子育て考2
(2015.10.18 18:33)
なんか子育てって世界や社会に対する「喜捨」である気がしてきた。
そうとでも考えないとやってられないっしょ。
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子育て考1
(2015.10.18 18:25)
子育てって「投資」じゃないからね。
「回収」を期待したら失望するだけだよ。
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「作用」という「神」
(2015.10.18 17:16)
世界も社会も結局は「作用」→「反作用」→「反々作用」→「反々々作用」→「反々々々作用」という機械的な反応が螺旋的に規模を拡大させながら展開されているにすぎない。
その一番初めの「作用」に対して我々は便宜的に「神」という名を与えているだけ。
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「点」と「空間」
(2015.10.18 14:41)
「一なる点」を「全なる空間」へと肥大化させるのが「1」マインドであり、その自らの世界を拡大させることにより自らの尊厳を存分に育もうとする。
「全なる空間」を「一なる点」へと矮小化させるのが「9」マインドであり、その自らの世界を縮小させることにより自らが消えてなくなることを防ぐ。
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インドだからこそ (2015.10.18 14:22)
おぞましいほどの人々の奇数性(動的・カオス)と、カースト制度に代表されるような絶望的なまでの偶数性(静的・コスモス)。
この両者がごった煮カオスモスを形成するインドという大地だからこそ、両者であって両者ではない仏教という『「9」=「0」』思想が誕生したのかもしれない。
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制御不能も自然のうち (2015.10.18 14:12)
あらゆるものをコントロールしようとする「8」マインドに疲れ果てた人が、あらゆるもののコントロールを諦めていく「9」マインドへと向かうのは極めて自然な振る舞い。
でもここで肝心なのは「コントロール」を悪と断じることではなく、「コントロールできないものもあるのが自然」という気づき。
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傍若無人
(2015.10.18 14:02)
自らが自ずから「天才」であるが故に自然と傍若無人となるのか(先天的な「1」マインド)。
自らを「天才」であると思い込みたいが故にわざと傍若無人を装うのか(後天的な「1」マインド)。
側から見れば同じ傍若無人かもしれないけれど、オリジナルとコピーの中身の差は歴然としている。
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ひらめきときっかけ (2015.10.18 13:48)
良い「ひらめき」のためには、それの何十倍もの良い「きっかけ」が必要。
いろんな場所に赴く、多くの本や芸術に触れる、様々な人々と語り合うなどなど。
そしてもっと大切なのは、それら多くの「きっかけ」から得られた折角のわずかな「ひらめき」を自らのつまらぬ理性で捨ててしまわないこと。
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ゆとり
(2015.10.18 12:57)
風邪を引ける「ゆとり」って大切だね。
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難しい「中庸」 (2015.10.18 9:56)
「中庸」とは偏った思考・行動を取らない、過不足が無い、中正であり穏当であること、などを表す言葉であり、これはまさに理想的な「9」マインド。
ただこれを目指すことは極めて難しく、必死に目指した結果「0(虚無・ニヒル)」マインドとなり、それを「中庸」であると勘違いすることもある。
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若さ (2015.10.17 21:31)
一生懸命に「未来」へと邁進することにより、永遠の若さを手に入れるのが「1」マインド。
ただただ「現在」を味わい生きることにより、流れる時間を止めるのが「4」マインド。
自らの時間を「過去」に巻き戻していくことで、甘酸っぱい思い出と共に己の若さを蘇らせていくのが「7」マインド。
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マイペースであること (2015.10.17 16:29)
自らのペースを淡々と維持するような「4」的なマイペース。
これを維持するということは、つまり周囲のペースに飲み込まれないように逃げたり抗ったりする「5」的な行為でもあるということ。
「4」であるということは則ち「5」であるということであり、両者は切っても切れないコンビなんだ。
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御恩と奉公 (2015.10.16 8:20)
きちんとした「御恩(恩賞や保護)」が保証されないのなら、それに見合った「奉公」が為されなくても無理はないよね。
この両者は元々セットのものだったのに、いつの間にやら権力者にとって都合の良い「奉公」だけが重く取り扱われるようになってしまった。
良い「奉公」は良い「御恩」から。
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曖昧な「愛」 (2015.10.16 7:55)
万物を分離せず、遍く全てを包む「9」的な愛は愛かどうかも曖昧なもの。
でもこの愛は自他の境界をも曖昧なものにしてしまい、一部の才能の持ち主や専門的な修練を経た人でないと、あっという間に「0(虚無)」の中へと自他を追いやってしまう。
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開き直らずに (2015.10.15 23:31)
人とうまく繋がれない。
人との距離がうまく取れない。 相手を受け入れられない。
このような「2(関係)」がうまくいかない人が一転して開き直って「7(孤独)」へと走っていくケース。
そんな「7」マインドが開き直りではなく検証と反省に活かされるなら、健全な「2」はふと舞い降りる。
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「LINE」の堅苦しさ (2015.10.15 12:55)
「LINE」をゲマトリアすると「4」、単数変換前だと「22」となるね。
なんか人と人との繋がりや絆という「2」が凝縮することで「4」という分厚い壁が出来上がり、その中での関係維持に汲々とさせられるイメージ。
読んだかどうかまで把握されるシステムもまさに偶数的な堅苦しさだよ。
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奴隷化教育 (2015.10.15 8:38)
ただ一つのものとだけ繋がらせ(2)、周りを見えない壁で囲い込み(4)、独自の美醜感や倫理観を与え(6)ていけば、あとは自然に自他を抑圧的に制御(8)するようになる。
このような「偶数的教育」が一般社会を支配しているといっても過言ではないだろう。
ささやかな安定のための奴隷化。
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「指針」という不自由 (2015.10.15 8:03)
「指針」を求めたがる人。
「指針」を与えたがる人。
この両者が「占い」という市場を作り出す。
「指針」を求めも与えもしたがらない人は、その市場の中にうまく溶け込めない、いや溶け込まない。
「指針」という不自由から離れていたいが故に。
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つまみ食い (2015.10.15 0:14)
何か一つのことを極めるのではなく、「9」的に「いろんなものの良いところだけをつまみ食いする」ことを極めていくのも悪くないと思うな。
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心理テスト (2015.10.14 23:37)
どんなに質問の多い心理テストでも、それを受けようとするヒトは多い。
いかにヒトが自己を「分析」や「分類」、更には「定義」したがっていることの現れであり、そしてそれは「対社会」という絶対的な枠組みに支配される。
それらから離れてみる勇気がヒトに「自由」をもたらすかもしれない。
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合唱コンクール (2015.10.14 17:41)
学生による「合唱コンクール」を聴いていて思うのが、その選曲において大人たちの「青少年とはかくあるべき」というカタチの強さが目立つこと。
社会性という名の「偶数性」を育むことが教育であり、それが「合唱コンクール」にも盛り込まれているけれど、そこに実際の青少年たる「奇数性」は無い。
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浮き袋 (2015.10.14 16:12)
失望の海で溺れ死なないように、ヒトがその場であたふたとこしらえた継接ぎだらけの浮き袋が「哲学」と呼ばれるもの。
そんな「哲学」だからこそ、作り出したヒトを辛うじて浮かび上がらせるのがせいぜいであり、別の誰かのためには作られていない。
あなたの「哲学」はあなたが作るものなんだ。
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「需要」という束縛 (2015.10.14 16:05)
心理学を必要とする人々が「心理学」を作る。
哲学を必要とする人々が「哲学」を作る。
宗教を必要とする人々が「宗教」を作る。
人々の「需要」のために作り出されたものに、人々は自らを縛り付けていくことで、ささやかな安らぎを手に入れる。
大いなる「自由」を引き換えにして。
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「予め」からの解放 (2015.10.14 15:06)
「予知」もせず、「予想」もせず、「予測」もせず、「予言」もせず、「予告」もせず、「予習」もせず、「予行」もせず、「予約」もせず、「予定」もせず、「予防」もしない。
一切の「予め」という概念から解放されること、つまり「未来」という概念からの解放こそが強い「自由」への端緒となる。
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同盟か、非同盟か (2015.10.14
14:28)
「アライアンス(同盟)」による偶数的安定を選ぶのか。
「ノン・アライアンス(非同盟)」による奇数的自由を選ぶのか。
それぞれに一長一短があるけれど、できることなら自らが納得できる方を自らの意思により選んでいきたいね。
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自由な数秘術 (2015.10.14 14:19)
その人の持つ一種の「特殊性」を説明するために、いろんな計算法を用いることでその「特殊性」に当てはまる「数」を導き出そうとする数秘術。
どんな「数」からも、その人の「特殊性」を自在にこじつけてひねり出す数秘術。
道具である「数」に雁字搦めにされない数秘術はたぶん後者なんだろう。
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「常識」は重なり合い (2015.10.14 14:05)
自分の中の「一般」と相手の中の「一般」とが重なり合う部分が「常識」となる。
つまり自分と相手の「一般」が重なり合わなければ、両者の間に「常識」は形成されなくなってしまう。
そのくらい「常識」とは危うい立ち位置にいる概念なんだ。
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それって「人道」?
(2015.10.13 19:45)
闇雲に強制される人道は人道たるや?
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「掘る」つもりで観る
(2015.10.12 18:57)
初めから「2(観察)」を強く意識しても、そうして観えてくるのは対象の表面の手前付近までがせいぜい。
初めから「7(洞察)」を意識することで、やっと対象の表面が観え始めてくる。
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打つ鉄、打たれる鉄 (2015.10.12 0:32)
「鉄は熱いうちに打て」というけれど、打つ方も同じ鉄だったりする。
既に冷えて硬くなった先輩鉄が、熱くて柔らかい後輩鉄を打つという構図。
これは「柔いお前をビシバシ鍛えてやるぜ!」という指導愛に基づく教練の一環なのか、まだ形を変えられる柔軟性という若さに嫉妬してのシゴキなのか。
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飼い馴らされる過程 (2015.10.11 23:26)
経験・慣習・伝統・法律・倫理・教育などの「鎖」によって形作られた空間が「常識」と呼ばれるもの。
でもそんな「鎖」に囲まれ続けていると、もはやそれを「鎖」とは認識できなくなっていく。
つまり獣が飼い馴らされてペットや家畜となる過程と同様の過程をヒトもたどっているというわけだ。
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諸問題の根源
(2015.10.11 22:51)
「神性」を「神聖」としてしまったことが世界の諸問題の根源である気がする。
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「コピー」という行為 (2015.10.11 22:31)
「コピー」をさせじとひたすらに動きまくる奇数(動的・混沌・チカラ)の「7」。
そんな「7」をひたすらに目線で追い掛けて「コピー」しようとする偶数(静的・秩序・カタチ)の「2」。
オリジナルであろうとする奇数のチカラと、そんなオリジナルを自らに容れようとする偶数のカタチ。
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衒学的
(2015.10.11 17:17)
「衒学的」という言葉自体がとてつもなく「衒学的」だよね。
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生放送
(2015.10.11 16:33)
生放送を観て「ワクワク」するのではなく、「ハラハラ」してしまうことがつまり「大人になる」ということだね。
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非言語思考 (2015.10.11 15:48)
「7」マインドの強い人は、自らのダイナミックかつカオスな思考がある意味「言語」を離れたものであるが故に、他者に自らの考えを説明する際にどうしても「取りこぼし」が発生してしまう。
自らがこの「非言語思考」に苦しんでいる中、「非言語」を言語化しようとするのはなかなかに至難の技だ。
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見過ぎない
(2015.10.11 14:59)
「象意」を見過ぎず、「人間」も見過ぎず。
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「自己」を知る鍵 (2015.10.11 13:59)
「2」が持つ「関係」と「観察」二つの象意を駆使することで、ようやく「1」という「自己」がぼんやりと浮かび始める。
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下町人情
(2015.10.11 11:04一部追記)
立川談志や北野武は映画等で描かれる東京の「下町人情」について「彼らはお節介過ぎである」との苦言を呈している。
立川談志も北野武も共に「4」の人だけど、「4」に共通するのは適度な「壁」を作ることでお互いの領域を下手に侵すことなく、コンフォートを維持するという点。
この「壁」が薄いことを「人情」と捉えがちだけど、それが生むのはただのお節介だ。
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レッテルへの反射
(2015.10.10 21:47)
再現ドラマに出ているパックンを観て、つい笑ってしまうという「レッテルへの反射」は実に笑えない現象だ。
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「比喩」と「隔たり」
(2015.10.10 21:13)
物事の本質をまるで本質以上に浮かび上がらせる「比喩」もあれば、かえって本質をぼんやりと曇らせてしまう「比喩」もある。
いずれにしても相手の経験に基づく必要のある「比喩」という説明法は、それを用いずに説明するよりも尚一層相手との間に横たわる「隔たり」を意識させられる手法だと思う。
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パーソナルなアート (2015.10.10 15:19)
「スピリチュアル」って結局のところは「パーソナルなアート」だと思うから、それをソーシャルに引っ張り出して真偽を問うのはあまり相応しくないと思うんだよね。
もちろんそんな「パーソナルなアート」でソーシャルを席巻してやろうなどと思っている野心家には鉄槌を下しても良いとは思うが。
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その「愛」はどっち? (2015.10.10 14:58)
「3(エロス・純愛)」な愛が怖くて実行できない人は、その愛を「6(フィリア・友愛)」に変えてごまかしてしまう。
あなたが相手に抱く愛は「3」というダイナミックかつカオスな愛かい?
それとも「6」というスタティックかつコスモスな愛かい?
そこのところはハッキリさせておこうか。
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「卑猥」とは何か (2015.10.9 16:31)
性も含めたヒトの営みのありのままを露出するのが「3」マインドであり、それに対して穢らわしさやはしたなさのレッテルを貼って隠そうとするのが「6」マインド。
つまり「3」は道徳からの脱出であり、「6」は道徳による圧制。
過剰な「6」マインドが、「3」マインドを「卑猥」と断ずる。
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依存する「愛」 (2015.10.9 14:29)
自らの感情状態を拠り所とする愛が「3」という「自己愛」であり、これは自己に依存する愛。
他者の感情状態を拠り所とする愛が「6」という「他者愛」であり、これは他者に依存する愛。
特定の拠り所を持たず、自己や他者を包括する「遍く全て」への信頼感に依拠するのが「9」という「博愛」。
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ロマンティック (2015.10.9 14:17)
「3」も「6」も共に「感情」の数であり、そしてそれは共に「ロマンティック」さを表すということ。
「3」マインドは「ロマンティック」であることを自らに求め、それが叶わないと自堕落となる。
「6」マインドは「ロマンティック」であることを他者に求め、それが叶わないと排他的となる。
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真偽という「分断」 (2015.10.9 14:04)
僕はやたら「真(真理とか真実とか)」という語を用いる人とは距離を置くようにしている。
なぜなら何かを「真」と規定することは、それ以外のもの全てを「偽」と断ずる行為だから。
そんな分断行為の果てにあるのは、やはりただの「分断」でしかない。
「真偽」なんて恣意で容易に覆るんだ。
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ただ「自存」する (2015.10.9 13:46)
大切なのは「自尊」を育てることじゃなくて、「自存」の確認だと思うんだ。
でもただの「自存」では満足できない強欲さが、「自尊」というデコレーションを生み出してしまう。
わざわざ自らを尊ばなければならないなんて、実に面倒臭いこと。
ただ自らが存する。
それにさえ気づければいい。
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「自虐」という過剰制御 (2015.10.9 13:35)
つまり「自虐」とは「自尊」という肥大化した自らの「1」を「8(コントロール)」しようとした結果生まれてしまうもの。
何かが意のままにならない時、その何かを責めてしまうのが「1」マインドだが、意のままにすらできない自らを責めるのが「8」マインドであり、それこそが「自虐」の正体。
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「自尊」は「自虐」へ (2015.10.9 13:29)
「1」が何の衒いもなく自然な状態であれば、そこに存在するのはただの「自存」という穏やかさだけ。
しかし「自」への意識が昂ぶることで「1」は「自尊」へと姿を変える。
それが更に増大することで逆数「8」による「自尊」の制御を試みるが、過度の抑圧の結果「自虐」へと変質していく。
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自尊の安定へ (2015.10.9 13:21)
占術や魔術は「自尊の肥大」のためではなく、あくまでも「自尊の安定」のために用いたいね。
肥大した「自尊(1)」が社会から掛け離れることにより、それはやがて「自虐(8)」の増大へと反転してしまうから。
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欲のチカラとカタチ (2015.10.8 8:30)
「1」の欲とは「欲のチカラ」であり、「8」の欲とは「欲のカタチ」である。
「欲のチカラ」は力強い運動を生むが、闇雲にチカラを消費するだけに終わりかねない。
「欲のカタチ」とは欲しいものを確実に掴み取る「システム」を構築することだが、このカタチ自体に雁字搦めに囚われる人も多い。
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それはただの「連鎖」 (2015.10.8 8:21)
最近は大物芸能人カップルの結婚が相次いでいるようだ。
このことを「そういう運気の流れ」などと説明する人もいるかもしれない。
でも実際のところは一組目の大物芸能人カップルの結婚が、二組目以降のそれの「呼び水」になっているだけなんだと思う。
出来事がただ「連鎖」しているだけだ。
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どちらも「強欲」 (2015.10.8 8:13)
「8」マインドの「コントロール志向」は言い換えれば「強欲さ」となる。
お金に対してのポジティブコントロール志向は「富貴」、ネガティヴコントロール志向は「清貧」をそれぞれ目指させる。
両極端な概念だが、共にお金を強く意識しながら志向するという意味では「強欲」なアクションとなる。
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そこに「自由」はない (2015.10.7 14:15)
周囲が生み出した「壁」に猛反発し、そこからの自由を希求するのが「5」という数のイメージ。
でもその「壁」を「壁」と定義しているのは、他でもない「5」自身。
つまり、自分で自分を閉じ込めるための「壁」をせっせと築いているようなもの。
その猛反発に本当の意味での「自由」はない。
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「母性」ばかりの占い
(2015.10.7 12:39)
昨今の巷の占いからは「父性」が失われ、「母性」ばかりが目立つように感じるのだが。
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説明 (2015.10.7 11:03)
「星」が「あなた」を説明してくれるわけじゃない。
「数」が「あなた」を説明してくれるわけじゃない。
「色」が「あなた」を説明してくれるわけじゃない。
「あなた」を説明してくれるのは、それらのイメージに接したことにより何かしらの気づきを内側から引っ張り上げる「あなた」自身だ。
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三つの「知」 (2015.10.7
10:53)
あらゆるものを観察し、それをラベリングしていくことで得られるのが「2」という「知識」。
その得たものを洞察し、検証を繰り返し行うことによって得られるのが「7」という「知恵」。
その「2」という「知識」と「7」という「知恵」を統合することにより、「9」という「知性」を得る。
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着飾る「数」
(2015.10.7 10:32)
そこにいるマスターナンバーの人。
あなたは別にマスターナンバーなんかじゃない。
ただ「マスターナンバー」で着飾りたいだけの人なんだ。
自らが「ハダカ」であることに耐えられない人なだけだ。
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話すことへの強迫観念 (2015.10.6 22:31)
ありのままをベラベラとしゃべるのが「3」という数の持つイメージだけど、実際に「3」マインドの強い人は逆数「6」が強迫観念となってのしかかりやすい。
「相手にきちんと伝わるよう、要点を整理して丁寧に話さなきゃ」などと考え過ぎた結果、かえって言葉がうまく出て来なくなってしまう。
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疑う理由、見る理由 (2015.10.6 8:52)
なぜ悩み疑う(7)かって?
それは相手を見過ぎてる(2)からだよ。
なぜ相手を見過ぎる(2)かって?
それは悩み疑ってる(7)からだよ。
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盆栽とガーデニング
(2015.10.5 14:56)
限られた空間の中での存在を余儀なくされた人が、自らの境遇とのマッチングを図るべく「盆栽」やら「ガーデニング」に興じるのかな、などと思ってしまうわけで。
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断捨離を目指すエゴ (2015.10.5 14:33)
日々をただ何となく過ごしていった結果として「断捨離」状態になるのは別にいいと思うんだ。
でもその「断捨離」を目的として強く意識してしまうと、その行為はとてつもなくエゴまみれのものとなってしまう。
「断捨離」を目指せば目指すほどに、かえって「断捨離」状態からは遠ざかっていく。
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断捨離の無い世界へ (2015.10.5 14:27)
偶奇両有の「9」には内外も、前後も、上下も、左右も、もちろん中心も存在しない。
ただその辺りにぼんやりと何かが満ちているだけ。
更には有無すらも曖昧であり、「9」の境地に達した者は「断捨離」という概念すら忘れる。
捨てても捨てなくてもどちらでも構わない「断捨離の断捨離」。
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思考とは「過去力」 (2015.10.5 14:04)
「7」とは「動的思考」であり、それは「過去を見返すチカラ」でもある。
ヒトが思考する際には、当然ながら今まで自らが学んできた「経験(知識や言語)」を材料とする。
つまり自らの「過去」を総動員して「現在」を規定し、更に「未来」をシミュレートしていく。
これが「思考」の本質だ。
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「孤独」の集合体 (2015.10.5 13:45)
「集団」という概念を強く意識した「孤独」は当人に絶望しか与えないかもしれない。
しかし「集団」という概念がただの幻であり、「集団」とは「孤独」の便宜的な集合体に過ぎないということに気づければ、その「孤独」は絶望では無くなる。
だから「孤独」であることを恐れる必要は無いんだ。
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救いのアポトーシス
(2015.10.5 13:35)
長い人生の中では時折「0(虚無)」ポイントに突入してしまうことにより、既存の「自ら」に絶望することもあるだろう。
でもそれは既存の古臭い「自ら」を空っぽにし、全く新しい未知の「自ら」を充していくチャンスにもなる。
「0」という恐怖はむしろ救いのための「アポトーシス」なんだ。
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ブランド信仰
(2015.10.4 15:37)
「問う」という「7」的な行為を億劫がる人々が「ブランド信仰」という「2」的行為を生み出しているんじゃないかな。
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覚えきれないだけ (2015.10.2 8:32)
「9」は決して忘れやすいわけではない。
いろんなものを内包し過ぎてしまったあげく「覚えきれなくなる」だけなんだ。
そのあふれ出ていったものを「忘れ去られたもの」として捉えているだけ。
そんな自分に疲れたら補数「1」を思い出し、ケモノのシンプルさを人生に取り戻してみよう。
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描くことを忘れて (2015.10.2 8:26)
僕たちは様々な「数」という色彩を用いて、人生という名のキャンバスに何かを描いていく。
全てを内包する「9」は、全ての「数」という色彩を少しずつ混ぜ合わし、その色合いの変化を味わい尽くしていく。
そんな色彩の妙を堪能しているうち、何かを描くことをぽわんと忘れて過ごすのが「9」。
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終わりも始まりも自由
(2015.10.2 8:18)
数秘術では「1」は始まりの数であり、「9」は終わりの数であるとされている。
でもこの喩えは「数」を直線的に捉えた時の話。
「数」を円環で捉えるならば、何が始まりで何が終わりかということは大した意味を持たなくなる。
何を始点とし、何を終点とするかは自らの意思で決めればいい。
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「天秤」を壊す (2015.10.1 22:55)
普段から社会のいろんなものを「皿」で受け止め、「てこ」でバランス良く量っていく天秤座的なヒト。
そんな人がもし社会で生きることに疲れたのなら、「皿」を壊して何も受け止めなくなるか、「てこ」を壊してバランスを取るのを止めるか、どちらかなんだろうな。
両方壊すヒトもいるか。
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「いいね!」の直前に (2015.10.1 8:13)
「いいね!」を押そうと意識してから実際にそれを押すまでの刹那に、果たして「何」を思うのか。
その「何」を流さずに注目してみることで、自らが知らない自らの「本心」に気づけるかもしれない。
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