数秘術関連等ツイート(2015年8月分)
「思い出」の再生 (2015.8.31 22:18)
「思い出」を思い出す時はわざわざ過去にさかのぼってその情景を再生するわけではない。
偏らない「平和」 (2015.8.31 22:08)
「平和」であるということは「9」的な状態、つまり奇数(混沌)も偶数(秩序)も程良く混ざり合い、互いの存在を許し合える状態。
愛のカオスは悪か? (2015.8.31 21:47)
「6」という愛のコスモス(秩序)の代表例は「婚姻」だろうけど、そうなると逆数「3」という愛のカオス(混沌)は「自由恋愛」だったり「不倫」だったりする。
シンプルなダイス (2015.8.31 21:02)
ヌメロロジカル・ダイスは答えが極めてシンプルに出てくるからいいね。
「家族」というバケモノ (2015.8.31 14:51)
いくら「家族」といえどそれは決してひとまとまりのものではない。
内の星々 (2015.8.31 11:51)
「外の星々(宇宙)」というコスモスは変えようのない厳然たる秩序そのものだけど、「内の星々(ヒト)」というカオスは自らの意思で自由に変えられるし、自由にこじつけられる愛すべき混沌なんだ。
安心できる世界 (2015.8.30 14:39)
我々は普段「2」という機能、則ち全てのものを「=」と「≠」とを駆使して分類整理することで、この世界で安心して暮らすことができる。
「7」ならではの魅力 (2015.8.30 14:30)
ダイナミックかつカオスな思考を表し、底を窺い知ることのできぬ「7」は、そんな「7」だからこそ魅惑的なんだ。
「理解」するということ (2015.8.30 13:59)
「理解」とは「2」という「=」で固く結び付けられた二者(○○は△△である)を「7」という自らの思考で一旦解きほぐし、それを再び「=」で結び付けることで可能となる。
もっと自由にこじつけて (2015.8.29 13:29)
たとえば『私は「7」の人だから、大いに考え悩むのは仕方ないのね』などというように僕の逆数秘術を使って欲しくはない。
考えたくないからさ (2015.8.29 13:19)
なぜ占いを信じるのか?
「比喩」という「2」 (2015.8.29 13:14)
とある概念をより分かりやすい物になぞらえることが「比喩」だが、数で表すなら異なる二者を「=」でつなげる「2」的行為となる。
帰納法と演繹法 (2015.8.29 12:50他)
一般的な占いは「帰納法」の集合体だ。
「順序」からの逸脱 (2015.8.29 12:18)
「順序」から逸脱する勇気を持つことができれば、「幸せ」に一歩近付けるはずさ。
「7」という風 (2015.8.29 11:55)
『風が吹いてきて、木を揺さぶる。風は大木をも揺さぶる。わたしたちもそんな木々のようなものだ。つまらない考えに、くだらない考えに、どうしようもない思いに、心を揺さぶられている。』(超訳ヴィトゲンシュタインの言葉より)
「天才」とは (2015.8.29 11:48)
「天才」とはとどのつまり「順序」に囚われない存在のことを指す語だと思う。
全てカオスモスのせい (2015.8.29 11:45)
「この世界はあなたが考えるほどコスモス(秩序)なものではないよ」
ダイナミックな感情 (2015.8.29 11:32)
感情のカオス(混沌)である「3」は、自らのありのままの感情(好悪など)を否定や調整したりせず、そのままの形や勢いで湧き出させる機能を持つ。
好悪の理由付け (2015.8.29 11:23)
感情のコスモス(秩序)である「6」の中には、自らの好悪の感情を自らの美意識の中にきちんと整理整頓できるよう調える機能がある。
「考える」とは「観る」 (2015.8.29 11:09)
「7(考える)」という行為はとどのつまり自らの内側において何かを具に観るという「2」的な行為でもあるんだね。
ヒトの使命 (2015.8.29 11:01)
ヒトの使命というものがもしあるとするならば、それはそれぞれの「運」という理不尽による不均衡をなるべく少なくしていくように努力することだと思う。
奇数で確かめる (2015.8.28 17:47)
「2(プロミス)」を疑うことでその必要性を確かめるのが逆数「7」。
あなたを悩ませるもの (2015.8.27 17:53)
あなたを悩ましているのは親でもなく、配偶者でもなく、子供でもなく、友人でもなく、恋人でもなく、同僚でもなく、上司でもなく、部下でもない。
「美」の前の「美」 (2015.8.27 14:47)
ただ何かを生み出す過程が「3」という数であり、それを言葉や技術で修飾したり、より感動的に道徳的に取り扱うという「6」的なデコレーションを行うことにより、「美」は初めて「美」として人々に認識される。
縛り縛られる偶数 (2015.8.27 14:00)
何かを縛り、何かに縛られることを表し得るのが偶数だけど、分けるならこんな感じ。
どちらも「3」意識 (2015.8.27 12:16)
「3(遊び楽しむ)」にどっぷりハマることも、「3」を忌み嫌い逆数の「6(身を正して節制する)」へと向かうことも、共に「3」に意識が向かい過ぎているという点では同じ。
ちゃんとリアリズム (2015.8.27 11:13)
スピリチュアリズムという血液は、ちゃんとリアリズムという血管に流さないと、出血多量で(社会的に)死んじゃうぞ。
原子の火 (2015.8.27 9:01)
今日8/27は日本に初めて「原子の火」が灯った日とのこと。
パクチーのような人 (2015.8.26 23:32)
パクチー、コリアンダー、香菜(シャンサイ)などといろんな名で知られ、際立った個性で存在感を猛アピールし、好き嫌いが恐ろしくハッキリと分かれる存在。
「演技」をする子供たち (2015.8.26 15:20)
数秘術だと「3」は子供らしさを表す数として扱われる。
輝きの正体 (2015.8.26 14:08)
いろんな人が輝いているように見えるかもしれないけど、それはその人が必死に「闇」を隠しているだけだったりするし、見ているあなたの目が「闇」に慣れてしまったせいだったりもするね。
見つけやすい逆数 (2015.8.25 23:07)
自信に満ちあふれた「1」よりも、自信なく過剰な自制を繰り返す性質(逆数「8」)を身にまとった「1」を見つける方が多分手っ取り早い。
新しい「還暦」 (2015.8.25 18:58)
ルートナンバー(1〜9)を用いる僕としては、9×9=81歳を長寿時代における「還暦」と捉えている。
コツコツと自己肯定 (2015.8.25 12:42)
ここ最近になってやっと「人から仰々しく感謝されるほどではない地味な仕事をただコツコツとやり続けることにより、自己肯定感を安定化させる」という方向性を確立し始めている。
占いの「進化」 (2015.8.24 12:41)
未来の事態を直接的に当てる占い
ダイヤの強さと脆さ (2015.8.24 8:35)
自らの「1(野生的衝動)」を「8(人工的制御)」によりがむしゃらに抑え込むことで生まれる人格。
「つなぐ」というテーマ (2015.8.23 20:42)
今年の24時間テレビのテーマは「つなぐ」という「2」まんまであることを考えつつ、二本のタスキを肩に掛けて走っているランナーを見ている。
ジャッジからの脱出 (2015.8.23 19:57)
「9」という数が教えてくれるのは「ジャッジなんてものはどっちだっていいんだよ」ということ。
攻防一体の「壁」 (2015.8.23 11:23)
「4」の人は自らの意思のみで自己を守る「領域」を作っていくというよりかは、逆数「5」という他者への反発や抵抗の積み重ねによって数多くの「壁」を作り、結果としてそれにより自己を守る「領域」が自動生成されていくという説明の方がしっくりくる。
「二者」まで絞る (2015.8.22 10:06)
「2」は優柔不断の数などと言われがちであり、常に心理的に二者択一を迫られて大いに迷うパターンも目立つ。
それも個性 (2015.8.21 12:14)
「不幸」という個性。
「十字」を掲げる (2015.8.21 8:38)
「6(フィリア)」という行為は自らの頭上に「赤十字」を掲げるようなものだし、「9(アガペー)」という行為は自らの頭上に「本物の十字」を掲げるようなもの。
「33」の罹る病 (2015.8.21 8:29)
「33(→「6」)」の人の中には「キレイなものしか見たくない病」に罹っているケースがあったりする。
相手を選ぶ返報性 (2015.8.21 8:09)
いくら「6」が「返報性の原則」の元に生きているとはいえ、「3」と同じく感情の数であるということを踏まえると、返報するかどうかの判断は「好きか嫌いか」の感情によるところが大きいということ。
「意味」はいくらでも (2015.8.20 23:31)
「ヤバい」という語にいろんな意味が追加されていくように、たとえば「3」についても各数秘術師の経験に基づく象意(イメージ)がいろいろと追加されていく。
ダンスフル・ロックフル (2015.8.19 22:50)
日々マイペースに「4」な感じで生きる僕としては、楽しげな自分をさらけ出しながら遊ぶダンスフルな「3」的生き方にも惹かれるし、社会通念にケンカを売るかのように暴れまくるロックフルな「5」的生き方にも惹かれる。
希望と絶望の混じる愛 (2015.8.18 14:38)
博愛でありアガペー的な愛である「9」の愛は自己犠牲的・非打算的であるが故に最も報われにくい愛であるとも言える。
存在自体が「愛」 (2015.8.18 14:28)
自らを愛する「3」、他者を愛する「6」、自他含め全てを愛する「9」という「愛のライン」。
入りきらない「9」 (2015.8.17 22:36)
数秘術でもなんでもそうかもしれないけど、自らが築き上げた(もちろん古に習ってだけど)「システム」という箱に森羅万象の全てを入れてみたくなっちゃうんだよね。
もっと淡白に (2015.8.16 20:44)
なんか視聴者の心を揺り動かそうとするようなセリフが多いドラマを観ると「くどいなぁ」などと思ってしまう。
啓蒙という「暴力」 (2015.8.16 20:18)
「社会に生きる者は、その社会に責任を持たねばならぬ」という主張の元、より高い意識を持たせようとする啓蒙活動。
どちらも崇高 (2015.8.16 16:10)
自らの危険を顧みずに苦しんでいる人を助ける行為はとても崇高なもの。
弱い自由 (2015.8.16 15:56)
有限な存在として生まれてきた時点でヒトには本当の意味での「自由」は存在しないことになる。
「?」こその強み (2015.8.16 15:44)
たとえば「1」に見られるような唯一絶対とも呼べる「!」的主体があるとして、その主体がポッキリと折れてしまったなら復活は容易ではない。
「階層」なきSNS (2015.8.16 15:37)
ブログを一切やらず、Facebookも積極的には活用しない理由の一つとして「階層」の存在がある。
パラノイア (2015.8.16 15:00)
社会性に縛られるという偶数的状態こそが「パラノイア(偏執症)」であるが、これに激しく抵抗を試みる奇数的状態すらも結局は同じ「パラノイア」ということになってしまう。
自らの内での内戦 (2015.8.16 14:53)
「獣としてのヒト」が持っていた奇数的(動的・混沌)欲望は、「人としてのヒト」へと変化する過程で偶数的(静的・秩序)欲望によりコントロールを余儀なくされる。
ヒトのあるべき姿 (2015.8.16 14:38)
奇数(1・3・5・7)が教えてくれるのは「獣としてのヒト(脱社会人)」のあるべき姿。
「役立たず」はいない (2015.8.16 14:25)
もし自らを「役立たず」であると思っているとする。
どちらも「守る」 (2015.8.16 14:09)
自らや家族を犠牲にしてでも社会にいる困窮者を助けようとする「6」的マインド。
「7」な自分を赦す (2015.8.16 14:01)
考えに考え、疑いに疑いまくる「7」的マインドの持ち主の場合、逆数「2」的な信仰というライン引きをすることにより得られる救いもある。
サヨナラホームラン (2015.8.16 13:00)
高校野球におけるサヨナラホームランは、打った選手にとっても打たれた選手にとっても一生涯かかり続ける「呪い」のように感じる。
まだ捨てられない (2015.8.16 0:28)
散々「数秘術」を楽しんでからそれをポイ捨てするところまでが「数秘術道」とするならば、僕はまだまだ過ぎるくらいに「数」のこじつけ話をつぶやいているようだ。
スピーディー (2015.8.15 22:47)
時代がスピーディーになったのは時代の先進性によるものではなく、単にヒトが「待てなくなった」ってことなんだろうな。
不問の幸せ (2015.8.15 22:44)
「幸せとは何か?」ということを考えなくても済むようになった時点で、それはもう「幸せ」ってことなんだと思う。
誰の元に訪れるか (2015.8.15 21:58)
「奇跡」はそれ自身を素直に「奇跡」と信じ込める人の元に訪れる。
適応障害 (2015.8.15 21:47)
「適応障害」という語を見て思うけど、それはあくまでも社会側からの視点であり、個人の視点に立つならばむしろ社会の方が個人を適応させてくれない「厳密さ」を帯びているような気がしてならない。
そりゃ無理か (2015.8.15 21:32)
個人の先天的な性質よりも、環境に対する反応の蓄積こそが「性格」と呼べるものであると考えるならば、相手の失礼に対しても「まぁ環境のせいだから仕方がないか」という気にもなるだろう。
積み重ね (2015.8.15 12:03)
悼む人が悼まぬ人を詰らず、悼まぬ人が悼む人を嘲笑わず。
有益か、安定か (2015.8.14 16:05)
人格の形成における二つの道筋。
「真理」はいくつ? (2015.8.14 15:14)
そもそも「真理」がただ一つだけなんて、いったい誰が決めたんだ。
「魔法」の成果 (2015.8.14 14:13)
「魔女」であることを宣言しても、「魔女」になろうとしても、社会から罰せられることも殺されることもなく生きていられるこの社会を築いていった人類の過程そのものがとてつもない「魔法」だよね。
「2」という「自我」 (2015.8.14 13:43)
僕は今まで「1」に「自我」の意を与えてきたけれど、正しく言い直すならば「自己」なんだと思う。
「修行」が必要 (2015.8.14 13:32)
仏教ってとどのつまりは「9(満)」=「0(無)」であることを教えてくれるものだと思っている。
「=」という救い (2015.8.14 13:03)
世界の意味や仕組みを「=」で結び付けてくれる「宗教」とは正に「2」の救い。
ケダモノとしての幸せ (2015.8.13 21:16)
「脳みそのシワが若干多いケダモノ」であるところのヒトは「ヒトとしての幸せ」を満たしていけばいくほどに「ケダモノとしての幸せ」からはむしろ遠ざかってしまうのではないか、などと考えてしまう。
持たされる「夢」 (2015.8.13 20:37)
より原始的な社会であれば「夢」という仰々しいものを持つ必要はないけれど、複雑化していく社会においては個々人が自主的に「夢」を持つというよりかは、むしろ社会の側から「夢」を持つことを強制させられている気がする。
「4」と「5」の繰り返し (2015.8.13 14:52)
「時代」という「9」的な流れは「4(保守)」と「5(刷新)」の繰り返しで構成される。
「厄」を越える (2015.8.13 14:44)
厄年における「厄」というものを暦や環境のせいと捉えず、そもそも“「厄」とは何か”を捉え直す哲学的行為によって、ヒトは初めて「厄」を越えられるのかもしれない。
「5」志向という流行病 (2015.8.13 14:38)
基本数「6」のサルトルは積極的に社会参加(アンガージュマン)することにより現実を変えようとした。
「SNS」で気付けること (2015.8.12 13:17)
「SNS」をゲマトリアすると「7」になるけれど、これは逆数「2」という偶数的オンラインを構築することにより、むしろ奇数的スタンドアロンであることの大切さを痛感させられるツールであると思わずこじつけてしまう。
「ケモノ目線」で (2015.8.12 11:11)
「今まで親に散々迷惑をかけてきたから、これからは私が辛抱して親の面倒を見なきゃ…」などと自らを追い込む人がいるけれど、ヒト以外で親の面倒を見る動物なんていないはずだよね。
「お遊び」から広がる (2015.8.12 10:19)
僕にとっての「こじつけアート」とは、絶対的な意味付けが本来できないにも関わらず、「○○は△△である!」というように「=」で固く結び付けてしまった二つのモノを一旦解いて、別の何かと結び付けてみる「お遊び」なんだよね。
タロットだって (2015.8.12 9:43)
タロットだって「こじつけアート」だよ。
遺された人に残る「個」 (2015.8.12 9:35)
「16 塔」という「個」としての墓碑を叩き壊した後に残るのは、「17
星」に見えるような夜空に輝く「星」としての「個」のイメージ。
「塔」とは「墓碑」 (2015.8.12 9:25)
僕はタロットにおける「16 塔」を「個」として存在した証しとしての「墓碑(死後の名誉の為に建てた建築物でも可)」と捉えている。
タロットと「個」 (2015.8.12 9:17)
「12 吊るされた男」にて「個」としての罰と苦しみを受け、「13 死神」にて「個」としての終わりを迎え、次の「14 節制」以降は「個」という存在からの超越(集合意識との融合・その後の世界の話)を表す、という捉え方。
タロットの「順番」 (2015.8.12 8:57)
現存する最古のタロットとも言われる「ヴィスコンティ・スフォルツァ版」の大アルカナには名称も数字も書かれていない。
最後に置く「死神」 (2015.8.11 22:12他)
『タロットで占う際にどんな問題であったとしても、最後の場所に必ず「死神」の札を置くのっていいね』と以前に妻が言っていた。
「癒し」からの逃避 (2015.8.11 14:39)
「誰かを癒したい」という欲と「誰かに癒されたい」という欲の集まりが『癒しフェア』なんだと思うけれど、そんな癒し癒されたいという欲から遠ざかることによって得られる「癒し」もあるんじゃないかとも思ったりするわけで。
ただの「借り物」 (2015.8.11 14:32)
『この心も身体もただの「借り物」であり、どんなにモノを持ったとしてもそれらは結局「借り物」でしかなく、自分のものなんて何一つない』という「9」的な境地に至ることでラクになる人生もあるさ。
自由と不自由 (2015.8.10 23:36)
動的・混沌の奇数を「自由」、静的・秩序の偶数を「不自由」と捉えるとわかりやすい。
「ゾンビ」の可能性 (2015.8.10 22:24)
「1」が「生」であり、「0」が「死」であるとするならば、「9」とは「生」も「死」も境目なく混じり合い、曖昧模糊としている状態。
存在と無存在 (2015.8.10 21:55)
「1」とは正に「存在」であるけれど、これは「死」という必ずたどり着く場を意識するからこその「存在」であり、だからこそ有限である「生」はとてつもなく濃厚なものになる。
「人」と「ヒト」 (2015.8.10 15:33)
「人」はそれぞれ違うけど、「ヒト」はそれぞれ同じもの。
「いい人」からの脱却 (2015.8.10 15:15)
世間における「いい人」を数に変換すると正に「9」的な人という感じ。
不協和音 (2015.8.10 14:25)
自然のリズムと共に生きる「協和音」的な生き方でもいいし、そんなリズムにあえて合わせずに生きていく「不協和音」的な生き方でもいいと思う。
語り継ぐ「戦争」 (2015.8.10 12:50)
僕の母(80歳)は終戦間際に米軍戦闘機の機銃斉射に遭遇した。
次元変換 (2015.8.9 22:59)
僕もまぁそれなりにオタク的な人間だけれども、二次元のイメージを三次元という現実世界に投影して楽しんだり、またはその逆に三次元での嫌なことをアニメのワンシーンやマンガの一コマの如く二次元イメージに変換して受け流すことがオタクのメンタルヘルス向上術なんだと思うな。
「5」が築く「4」 (2015.8.9 20:07)
あまりにも閉鎖的かつ旧守的である「4」的な家庭に育った「5」の人はそんな「4」の壁を破壊して飛び出していく。
シンメトリー (2015.8.9 13:04)
全体のバランスよりも個としての美を追求するのが奇数というアシンメトリー(非均斉)。
全く気にしません (2015.8.8 23:20)
「8」の年である2015年の8月8日ということで「8」のパワーが宇宙にみなぎる的な話を聞くと、じゃあ同じ「8」の年である1988年の8月8日は「8」が多い分きっとものすごかったんだろうな、などと考えてしまう。
正に「洋」のごとし (2015.8.8 22:26)
「大きな夢は持たない」「たまたま俳優になった」と宣う大泉洋は「9」の人だけど、大きな流れに身を任せていたらいつも間にやらとてつもないところにまで流れ着いた感じが漂っている。
七夕結婚 (2015.8.8 14:02)
七夕(7月7日)を結婚記念日にする人たちの気持ちはよくわかるんだけど、彦星と織姫は年に一回しか逢えないんだよなぁ。
日常と、ワルツと (2015.8.8 13:50)
日常的な四拍子の「4」と踊り楽しむ三拍子(ワルツ)の「3」。
「金」への嫌悪感 (2015.8.8 11:26)
でもそんな「8(コントロール)」的な資本主義システムを是としない「8」の人も多い。
道具使いのプロ (2015.8.8 11:20)
「8」はお金や豊かさの数と捉えられがちだけど、それらは自らも含めたヒトやモノ(概念も含む)を「コントロール」するための道具でしかない。
資本主義の数 (2015.8.8 11:14)
ヒトやモノをお金を媒介として「コントロール」することにより、単独(単体)でやるよりもより大きな利潤(成果)を上げていける「システム」を構築していく。
新たな「1」、元の「1」 (2015.8.7 23:02)
「1」として生まれ、「2」から「8」までの学びを果たし、「9」でそれらの学びの集大成を迎えると共にそれらへのこだわりが薄らぎ、見えない「0」で意識からも消え去り、そしてまた新たな「1」として生まれ変わる。
モノクローム (2015.8.7 21:03)
オーラソーマやカラーセラピーなどを介して逆数秘術講座を受講する人も多いけど、そういえば僕自身はあまり「色」というものに頓着しない。
「ホーム」を作ろう (2015.8.7 12:24)
自身に閉塞感を与える「4」という「ホーム」を逆数「5」的に飛び出したり破壊したりすることで、本当に自分が寛げる「ホーム」を作り直していくまでが「4」の人の人生のテーマ。
前向きか、後向きか (2015.8.7 10:37)
「9」という「諦め」が前向きなものか後向きなものかは、その次の数である「1」という「アクション」の結果により初めて定義付けができるようになる。
前向きな諦め (2015.8.7 10:25)
「7」というカオスが「2」というコスモスを求め、そんな「2」に対して再度「7」が活性化し、疲れ切った「7」が再び「2」に救いを求めるというエンドレスゲームの果てに、両者が統合された「9」というカオスモスな「前向きな諦め」に行き着きそうだ。
タナトスを疑え (2015.8.7 10:11)
もし「7」的マインドの極致に達した人がタナトス(死の本能)に誘われたのなら、補数「3」というエロス(生の本能)へと全力疾走するのもありだけど、更に「7」を貫いて「おまえ本当にタナトスか?ニセモノじゃないのか?」などと問い詰めるのもありかもね。
「7」への意味付け (2015.8.7 10:00)
「7」の人や「7」的マインドの人は「私はどんな人間なんだろう?」とか「僕の役割って何だろう?」などのように自らに対して「?」をつけまくる。
偶数性の罰 (2015.8.7 9:15)
テレビでアメリカの若者の一部の間に流行る奇数的(動性・混沌・チカラ)遊びを取り上げている。
まずは「8」を探す (2015.8.7 8:08)
自らに眠る「1(衝動というアクセル)」を思い出すためには、その発露を妨げている「8(抑制というブレーキ)」の正体を探るのが近道。
「毒親」からの逃避 (2015.8.7 0:00)
親によるコントロールを脱して独立する「1」的アクション。
見せてこそわかる (2015.8.6 19:43)
「3(開陳)」は「4(閉塞)」の前にあるのがポイント。
「9」という「諦念」 (2015.8.5 23:10)
偶奇両有の「9」、全ての数を内包する「9」、カオス(混沌)とコスモス(秩序)を両方併せ持つカオスモスな「9」、そして「1(自我)」から一番遠いところにある「9(無我)」だからこそ、「9」が「諦め」という象意に繋がっていく。
「隣」へは行きやすい (2015.8.5 22:52)
苛烈なる「8(圧制)」に対して、逆数「1(矜持)」により抵抗したり、補数「2(受容)」により恭順したりと両極端な対処策がある。
カオスの処し方 (2015.8.5 12:47)
「7」というとてつもない思考のカオスを逆数「2」というベールで隠し続けることで社会(偶数体)に弾かれないようにする生き方もあるし、補数「3」という開き直りにより堂々と異端の存在として暴れまくる生き方もある。
人を「験(ため)す」 (2015.8.5 12:31)
「信じる」ために誰かを「験(ため)す」という行為についてのツイートが流れてきたけれど、これこそ正に掛けたロープ(2)が切れないかどうかを確かめる(7)行為に他ならない。
「4」あってこその社会 (2015.8.5 9:26)
「3(楽しさ)」の対比としての「4(退屈さ)」。
どちらも「パワー」 (2015.8.4 19:39)
式根島の海辺で拾ってきた石ころが僕にとっての「パワーストーン」なんじゃないかな。
不要な表現 (2015.8.4 19:31)
「パワーユニバース」の一部たる「パワーアース」の更に一部たる「パワーストーン」が力を宿しているのは当たり前と言えば当たり前なのかもね。
「6」したいくせに (2015.8.3 23:23)
他人に感謝されるような「6」的な人助け行為をためらってしまう人の中には、「そんな面倒臭いことはせず自分に正直に生きた方がいいに決まってる!」などという「3」的な価値観を肯定することにより、「6」からコソコソと逃げている自分を正当化する人もいるね。
ホントとウソ (2015.8.3 23:15)
ホントのことを言って自滅するのが奇数的パターン。
「意味」を与える (2015.8.3 16:09)
僕は「ヌメロダイス」なるものを普段教えているけれど、これは過去・現在・未来を当てるものではなく、過去・現在・未来に「意味を与える」ツールなんだよね。
「証」を求めない (2015.8.3 16:03)
絶対的な存在による救済の約束。
弥勒菩薩による救済 (2015.8.3 15:41)
弥勒菩薩による5,670,000,000年後の救済。
教育現場 (2015.8.3 13:59)
組織体維持のためにコントロールの網を張り巡らせるという「8」的な意思により、個人の持つ熱意という「1」的な意思が殺されてしまうケース。
微量ならOK (2015.8.3 11:46)
Q:微量だと自らを救うけど、多量だと自らを滅ぼすものって?
死ねない「ヒト」 (2015.8.2 19:29)
野垂れ死んだケモノの「死」は完全なる「無」になるけど、お墓やら記録やら記憶やらで死んだ後もあたかも生きているかのような状態にさせられるヒトの「死」は「無」からはかなり程遠い感じがする。
二つの「壁」 (2015.8.2 14:33)
「4」と「8」には「壁」の象意を与えることができるけど、「4」の場合は単に壁がその場を動くことなくそそり立っているだけ。
「=(イコール)」 (2015.8.2 13:26)
二つの事柄の間に「=(イコール)」を挟んで安定化させるのが「2(秩序の思考)」という行為であり、その「=」を一度取り外して検証していくのが「7(混沌の思考)」という行為。
個人か、社会か (2015.8.2 11:31)
社会の方が個人に合わせるべきと考え、いまいち社会に馴染もうとしないのが奇数的な人。
両隣の「数」を満たす (2015.8.1 23:11)
何か特定のことを行う時、まずはそれを「数」で捉え、そして両隣の「数」がそれを行うことで満たされるのかどうかを確認してみよう。
「性格」と「性質」 (2015.8.1 23:01)
僕がいつもつぶやいているのは「数」ごとの「性格」ではなくて、あくまでも「数」ごとの「性質」について。
センス (2015.8.1 12:32)
センスは「増やし方」よりも「減らし方」に現れるね。
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